家父長制の墓
現在も世界中のありとあらゆるところに残る家父長制(Patriarchy)的価値観。国家が国民を「国力」としかみなさず、国力を増やし育てるために血縁に依る「家族」以外のものを排除し、その異性愛健常者中心主義のガチガチの家制度で「男性」を家長としながら外で生産労働させ、「女性」を家に閉じ込め再生産労働(ケア)をさせる。私たちの権利と自由を奪い続けるタチの悪い怨念のようなヤツ。もうずっとハエがたかるほど腐敗しているこのシステムを埋葬し、成仏してもらいましょう。サイドに描かれた芍薬は、日本の古典的な「美しい女性」を表すために用いられる花でもある。しかしその花言葉の一つには「怒り」があるのである。
No one is free until we are all free.
わたしが自由になるまでわたしたちは誰も自由ではない。パレスチナ解放運動で使われているスローガンだ。
アニッシュ・カプーア「マルクスやエンゲルスが言ったように、一人が鎖に繋がれていたら、みんなも鎖に繋がれていることになるのだ。個々の人間性が奪われ、踏みつけられ、人間としての可能性、そして人類の可能性が踏み潰されてしまうのだ。」
わたしは、わたしが自由になりたいからこそあなたの自由のために闘っている。パレスチナの帰還権を求める鍵のモチーフをオリーブの葉と共に描いた。
(こちらのパーカーは、就労継続支援B型 障害福祉サービス施設の「一葉(いちよう)相模原事業所」の方に、タイダイ染めをお願いしました。)
MY BODY MY CHOICE
(※性被害の経験が語られているのでご注意ください。)
私がこの言葉に出会ったのはフェミニズムというものに出会いはじめた頃だった。カナダのトロントで警察官が放った「レイプされないためにはスラット(尻軽)な格好をしないことだ」というセリフ。それに怒った女性たちが起こした抗議運動「スラットウォーク」の記事の写真に、あえて露出の多い服を着てこの言葉のプラカードを持った人々の姿があった。
「怒っていいんだ」と、思った。そんな当たり前のことに、気付けなかった自分がいた。幼い頃から自分も、周りの友達も、突然同意なく性的な行為を見せつけられたり、身体を触られたりすることが決して珍しいことではなかった。学生時代には毎日のように電車で痴漢に遭っている友達もいたくらいだ。私が初めて性被害に遭ったときは、それがどういう意味を持つのかすらわからなかったけれど、とにかく怖くて、立ちすくんで涙を流すことしかできなかった。30年以上前のことだが、今でも泣きながら見つめていた階段の隅を鮮明に思い出せるくらいに脳裏に焼きついてしまっている。それでも、私は同時に言い聞かせていた。「しょうがないことなんだ」と。スカートをはいていたから、一人でいたから、「女」だから、これぐらいみんなされているから…。幼い私にすらそう思わせていたものはなんだったのだろうか?今ならわかる。
勇気を持って自分の被害を告白する人々のおかげで少しずつ変わってきたものの、いまだに「気のせいなんじゃない?」「自意識過剰」「売名行為」「ハニトラだろ」「そんな格好してるから」「それくらい笑って流せるのが賢い生き方」などなど、被害者のせいにさせようとする呪いの言葉でこの世はあふれているからだ。被害者の多くにはショックの大きさを和らげようと「なんでもないことなんだ」と自分に言い聞かせる、いわゆる正常化バイアスがかかる。それすらも利用し、私たちから怒りや悲しみの感情と表現を奪う卑怯な行為だ、と今なら思える。
私の身体のことは、私が決める。どんな格好をしていようが誰も私の身体を好きにする権利はないし、誰を好きになるかも、ひとりでいるのかも、子供を持つも持たないも、安全に妊娠を、中絶を選ぶことも、「自然」であるかも「不自然」であるかも、どんな状態であるかは、誰の指図も受けず、自分で決めていい。そしてそのための正しい知識や医療にアクセスする権利がある。
「性と生殖に関する健康と権利(SRHR)」は、すべての人が持っています。しかし、隙あらば支配しようとしてくる奴らのせいでこの権利が侵害されまくっている。(我々にある果てしないパワーをビビってるんでしょうね)
米国でトランプが再選された後「Your Body, My Choice(お前の身体のことは俺が決める)」というとんでもね〜言葉が男性たちから出回ってるし、反LGBTQ + 政策、特にトランスやノンバイナリーの存在を否定する動きが強まっている。
ジェンダーギャップ指数118位(146国中)の、ここ日本でも、公共空間でセクシズムがあふれているし、緊急避妊薬へのアクセスも難しい。「女性」の身体を管理してやろうとする力を、そこら中から感じてしまう。そして「女性」「男性」の二元論がら外れた人たちを排除しようとする陰湿な言葉はSNSで今日も飛び交う。
けれどどれだけの権力者や多くの人が否定したとしても、実際に我々は存在するのだから消すことはできない。人間は元々多様であるという事実の複雑さを受け止められず、今あるシステムの単純さに押し込むことしか考えられなくなっているのだと思うが、それゆえに起こっているトラブルは複雑さを学ぶことでしか解消できないし、それでますます被害を被るのはまた女性や性的マイノリティなのは言うまでもない。難しくても、複雑なものを見ようと目を凝らさなければ、より良い社会の作り方などわからない。多様な選択を互いに尊重するこのフレーズは、大きなものの支配からの抵抗と、共存のための力強いメッセージだと思う。
CLIMATE JUSTICE NOW
「気候正義 / CLIMATE JUSTICE」は、気候変動問題は(加害者と被害者が存在する)国際的な人権問題であることを指摘し、公平さを求める概念だ。環境問題は地球全体で起こっているのだから平等に降りかかると思われがちだが、実際は「先進国」や富裕層がエネルギーを大量に消費し引き起こされた温暖化が、これまでエネルギー消費の少なかった低所得国に大きく被害をもたらしている。その地域の主な産業である自然に頼った農業や漁業などに深刻な影響を与え、更に気候変動に適応するための技術や資金が不足しているため貧困を拡大させ不平等を加速させている。そして時間が経つにつれて更に深刻な影響を受けるのは、責任のない将来世代だ。
「地球に優しく」という他人事ではなくこれは私たち人間の、不平等による問題で、特にエネルギー大量消費時代を作ってきた大人が責任を持って取り組まなければならないことだ。加えてここ日本ではプラスチック消費量が世界2位という事実があるがそのプラごみがインドネシアなどに押し付けられ、現地の人の深刻な健康被害を引き起こしていることも知られるべきだろう。個人のできる努力にはそれこそ格差が出てしまうけれど、やはり権力のある企業や国に責任ある行動を取ってもらうことが重要なのではないだろうか。権力者が引き起こす侵略や戦争も環境を破壊している。その武器を製造する企業の商品を買わないことや環境問題に対して不誠実な企業に「これ以上力を与えない」と意識を持って自分のできる選択をすることから始めてみるのもいいかもしれない。
Good girls go to heaven and bad girls go everywhere
「良い女の子は天国に行く、悪い女の子はどこへでも行ける」メイ・ウェストの名言とされる言葉で、わたしが知ったのはタイのセックスワーカーのwebページに紹介されていたことを知り合いに教えてもらったのだった。「悪い女の子」というのは「女の子はこうありなさい」という規範からはみ出したわたしたち。ちなみにわたし(super-KIKI)は、「女」に限定されるとモヤるジェンダークィアだが、ずっと「女」として扱われているので「悪い女の子」としてこれを着ます。
I’m a Witch and Human
魔女は、あるときは恐ろしい力を持つと勝手に想像され、あるときは弱者とされ、あらゆる災厄の原因とされ排除されてきた。全ては多数派の都合の良いように、私たちの像はまるでファンタジーの中の存在のように、人間ではないものとして歪められてきた。しかしその中で異端であることを恐れず、その醜いレッテルさえもリクレイムし再び自分たちの力へと取り戻している存在でもある。嵐、炎、貼り付けられた十字、バイコーン(2本の角を持つ馬で不純の象徴)恐ろしいものや災厄を意味するモチーフを身にまとう魔女として生きる。しかし私は同時にただの人間なのである。あなたと同じように。
連帯と共生
杖をついて歩く人、車椅子に乗った人、赤い傘(セックスワーカーの象徴)を持った人、見た目ではわからないけれど偏見や差別の対象にあったり、困難を抱えている人。
わたしたちは姿形や、できることできないこと、コミュニケーションの方法も様々だけれど、すでに一緒の社会で共に生きている。これからもお互いの複雑なあり方から目を逸らさず、語り合うことをやめずに共存の道を探ることでしか平和は築けないのではないかと思う。
セクシズム殺す
セクシズム=性差別のこと。女は、男はこうあるべき、同意を取ろうとしないセクシャルな行為、性別は男女の体の違いで2つしかないはず!という決めつけなど、そういうものは一緒に殺していきましょう。
基本的人権
人権という言葉を口にすると優しさや思いやりの話にされがちだが、私はこれはお互いに自由で平和でいるための最低限必須の概念だと思っている。私たちは生まれた環境や境遇も違う、決して「平等」ではないだろう。でも私たちは生まれながらにして「基本的人権」という、すべての人間は生まれながらに自由かつ平等で、幸福を追求する権利を持っている。
この考え方がないと、不平等な力の差があるこの社会で、力のあるものがいくらでも奪ったり殺したりできてしまう。法にも守られないし戦争や虐殺だって今よりずっと簡単に起こる。ちなみに今の日本国憲法ではこれが保証されているが、自民党がこの憲法をずっと変えようとしていて我々の人権を制限する草案(こう変えちゃおっかな☆という案)を出している。私は私の自由を謳歌したい。だからこそこれを揺るぎないものにするために「戦手をやめろ、虐殺をやめろ」「植民地支配をやめろ」「差別をやめろ」と言い続けるし、自民党の憲法改悪には全力で抵抗する。
NOISY MINORITY
「権利ばっか求めるうるさいマイノリティー」のことを揶揄してこう呼ぶそうだけど、いつだって歴史を変えて平等を勝ち取ってきたのはノイジーなマイノリティー。
不純のバイコーン
背中に処女しか乗せない「純潔」を司るユニコーンと対照的に描かれる、不純を司るバイコーン。それは時に女の怪物として描かれる。「自然」や「純潔」であることがよしとされるわたしたちのあり方。ナチュラルメイク、すっぴん信仰、自然分娩、生まれ持った身体をいじることへの拒絶。そう、何が「自然」であるかというものは国家や権力の管理に繋がっているのだ。
そして純粋な人間性とやらをじる性善説のようなものにも異を唱えたい。この混沌とした世の中で私たちはすでに善も悪もないまぜに持ち合わせたまがいものだ。私たちは歴史を省みても殺し合いをやめず生きる土地をも破壊し続ける愚かな生き物だ。それを受け止めてはじめて「じゃあどうしたらいいのか」話し合うことができる。この社会に生きて純粋な善でいることはもはやできないし、そういうものに価値を置く言説はあっという間にそうじゃないものを排除してしまう。我々は不純な化け物で、魔女で、妖怪で、サイボーグなのだ。化け物の持つ暴力性や支配欲の存在を受け止め、同時に併せ持つ共存のためのわたしたちの力を信じ、これから話をしよう。
解放 Liberation
「解放」という文字を自分自身の身体にボムするため、以下の言語で記した。日本語/広東語/台湾語/中国語/アラビア語/スペイン語/ハングル/クルド語/スワヒリ語/フランス語/ミャンマー語/ウクライナ語。
CYBORG
「女性」と扱われるわたしたちは世の中からあらゆる「こうあるべき」という命令を常に受け、差別から生まれた暴力でさえ、その傷でさえ、もはやそれが自分を形作る人格ともなってしまっていることを自覚する瞬間がある。フェミニズムはその傷を鮮明にするものでもあり、それに向き合い闘う作業はそこらじゅうについた古傷をナイフで抉るようなものだ。しかしその権力にカテゴリされ続ける苦痛から逃れようともがく意識こそまさに自我であり、確固たるわたしの意志がそこにあることを強く認識できる。生まれたままの形の、「自然」で「きれい」なわたしなどつまらない。異質であっていい、そもそも異質と本質の境目にわたしはいて、それは最高に複雑でおもしろくて、つよいのだ。私をコントロールしようとする埋め込まれたものと共に生きながら、それさえも自分を強化するパーツとする。我々は自然/機械の境界をかき乱すサイボーグである。
Anti-Binarism / Queer Power
3つの顔と足を持つうさぎかネズミのような生き物がハート型のトゲトゲの爆弾を持っている。一つの顔は怒り、一つの顔は悲しみ、もう一つの顔は真っ直ぐに上を見つめている。「イメージアップのための明るく行儀のいいマイノリティ像」であることを拒否し、あらゆる二元論と二項対立を否定する。傷を抱えながらも愛を持った破壊を望み、繋がれた鎖を打ち砕いている。
DANCE!
「Queer&Femme DJ party in Tokyo ジェンダー/セクシュアリティ/人種/年齢にかかわらず、オープンで他者と寄り添う気持ちのある様々な方が安心して楽しめるセーファースペースを、参加者と目指すことを目指すパーティ」
WAIFUのフライヤーのイラストを描いた時に使ったデザイン。
車椅子の入れるクラブはまだ少なく、それでもいろんな交渉を重ね開催されたパーティは、ダンスをすることは自由を表現することなんだと思い出させてくれる空間だった。踊る人、踊らない人、ミラーボールの光が散りばめられた宇宙はわたしたちのありとあらゆる存在のかたちを祝福してくれているようでもあった。
BDS
頭文字をとってBDS運動は、イスラエルに対し、占領と入植活動、虐殺など国際法に違反する行為を中止させる政治的・経済的圧力の形成と増強を目的としたグローバルなキャンペーン。ボイコット、資本の引き上げ、制裁を求めている。
WHERE IS MY MONEY?
わたしのお金どこに行った?こんなに人生の大半を労働に費やしているのにわたしたちの暮らしが一向に豊かにならないのはなぜだ?こんなに多額の税金を払ってるのにそれが福祉に使われず政治家が裏金や利権で溶かすこの状況はなんなんだ??
Anti-Capitalist Queer Feminist
変な感じ。これは反資本主義を訴えた作品なのに、あなたに資本を求めている。資本主義にどっぷり浸かってしまっている自分が嫌だ。でも、この世界で生きていくためにはどうしても完全に逃げれない。自分の価値観と自分の存在にどこまでもパラドックスが生まれる。実際今、この文章を書いているiphoneも搾取と富の貯蔵を経て、私の手にある。正直私は完璧な"ugly, anti-capitalistic, queer feminist"では全くない。そんなの存在しない。
でも、この作品を購入することによって、あなたはアマゾンやユニクロではなく、私を直接的に支えてくれている。クイアな人間二人によって作られたものを支持してくれている。このお金がどう使われるかについて、透明性が重要だと思う。これについては、私の生活費です。主に来月の食費と家賃に使います。
私は2017年から B.G.U.という無料クイアフェミニストジンを作っている。B.G.U.を通して資本に囚われない表現や運動を創造しています。これを続けていくためには、どうしても私の生活を支えるお金が必要です。富の分配の一種だと思ってください。
これじゃ、全然腑に落ちない?そりゃそうだ。これだけ深く根付いた資本主義をどう戦っていけばいいのか?一つ言えることはある。こういう小さな対話や戦いや透明性を通して、少しでも構造を懐疑できていると思う。レインボー色の軍服?「ガールパワー」を謳った800ドルのTシャツ?糞食らえ。他人の差別に加担しながら、「エンパワー」するのがどれだけ矛盾したことか。この構造を変えるための小さな一歩としてこのメッセージが届くことを願って。
※コラボ企画
コンセプト:Yume Morimoto (クイアフェミニストB.G.Uzine編集長) / デザイン:super-KIKI
l'm not your token
今日この頃、アート界などのちょっと文化的にリベラルな業界では、「ダイバーシティをちゃんと取り入れている」というアピールをするために、有色人種、Female presentingpeople や Queer people をリーダー格や職種に採用する傾向があります。トークニズムをあらわにし、反対するためのこのメッセージは、自分が言いたくてもはっきり言えないことでもあることから、あえて、一人称を使っています。(塩野入弥生)
トークニズムとは?
建前主義。例えば人種差別や性差別に反対しながらも最小限の努力しかしないこと(ウィズダム英和辞典)。見かけ上、公正に見せようとするために、社会で不平等に扱われているグループにアドバンテージを与えるふりをすること(ケンブリッジ英英辞典)。
トークンとは、直訳すると「象徴」「記念品」「証拠品」など。「多様性」という正しさを掲げるための証拠品として「マイノリティ枠」として席を与えられる問題があります。実際には圧倒的多数派の属性の中で過ごすことになる中声をあげにくかったり、逆に「少数派の声を代表してくれる存在」のように注目され、個人としてみてもらえなかったりプレッシャーを与えられたりという問題があります。多様性というものが美しく正しいものとして認識が広がっていく中で、それがただ表層だけの美しさだけでパッケージングされ、ラベリングされ、肝心な個人の人権や意思は蔑ろにされてしまう危うさがあることを表現しました。
※コラボ企画
コンセプト:塩野入弥生 / デザイン:super-KIKI
FEMINISM × TRANS RIGHTS
フェミニズムもトランスジェンダーの権利運動も描くのは「全ての性差別がなくなる未来」であり、そのためにはどちらがかけても成立しない。わたしたちが共に水を注ぎ土を耕し、共に生きた世界に解放と平和が訪れる願いを込めて、中央には現在わたしの知る限りの紛争地帯にある地域の花を描いた。
パレスチナ(ポピー)・イエメン(コーヒーの花)・ウクライナ(ひまわり)・シリア (ダマスクローズ) アフガニスタン (バラ)・ミャンマー (イクソラ・コッキネア)・コンゴ(マホガニー)・南スーダン(ハイビスカス)
袖にはひらがなで「共に生きる」とプリントされている。
燃え上がる心臓
有刺鉄線に囲まれて燃え上がる心臓。過酷な状況にあっても抵抗することをやめず、生きていこうとする気持ちを表現した。
追悼碑を背負う
群馬県は2024年1月、県内公園「群馬の森」にある朝鮮人追悼碑の撤去を始めた。軍需工場や鉱山などに強制連行や労務動員されて亡くなった植民地支配下の朝鮮人を追悼する目的で建てられた碑で、銀色のプレートには「記憶 反省 そして友好」と刻まれていた。追悼式で「強制連行」と発言するなど政治的な行事がされたとして群馬県が設置を「不許可」としたのである。強制連行とは縄で括って連れて行くようなものだけを指すのではない。支配し抑圧し、あらゆる選択肢を奪い、生きるため藁にもすがる人々を騙し連行した事実が確かにある。その事実を消そうとする行為こそが歴史修正主義のイデオロギーにまみれた最も卑しい政治的行為ではないのか。わたしは少し前に、『草 日本軍「慰安婦」のリビング・ヒストリー』というエッセイを読んでいた。そこに描かれていた騙されて連れてこられ慰安所で働かされて性暴力にあった彼女たちのことを思い出した。このおぞましい記録に胸が痛むのなら、わたしたちができることは記録を残し繰り返さないことなのではないか。
川崎の実家のバス停の前に立っていたら、歩道橋に「END RACISM」の落書きがあった。川崎には在日コリアンの人々が多く住む地域でもある。「記録 反省 友好」を刻む人々も確かにここにいる。その落書きの写真と、「平和の少女像」のイスに、映画「お嬢さん」で描かれた女性同士の連帯を描いた。
PINK FLASH TRIANGLE
雲から走るピンクの稲妻が有刺鉄線を壊す。地平線は帯電し、ピンクのトライアングルを浮かび上がらせる。ピンクの下向きのトライアングルは、ナチスの強制収容所で同性愛者の囚人服に縫い付けられていたマークであり、1987年からニューヨークで始まった、エイズ・アクティビズムを推進した代表的な団体「ACT UP」はこれを逆さにしてシンボルマークにした。
わたしの人生を壊しに来た救世主
パク・チャヌク監督の映画「お嬢さん」からインスパイアされて作ったグラフィック。日本の植民地支配時代の韓国で詐欺グループに育てられた韓国人のスッキと、叔父の支配にあり膨大な書物に囲まれたお屋敷から出られず、家父長の道具に使われる日本人の令嬢・秀子のロマンスと女性の連帯を描く。この言葉は秀子がスッキの存在を表現したものであり、現代の韓国を生きる女性たちの間でフェミニズムの存在を表す言葉としても浸透しているのだそう。フェミニズムが帝国主義と植民地支配からの解放のキーとして描かれるこの作品の思想を、日本に生きるわたしが現代に身にまとっておきたいと思った。映画のメインビジュアルのスッキと秀子の繋がれた手を絵に起こしたのだが、模写に起こしただけで女性同士のロマンスのまとう空気が伝わってくるのだから、チャヌクと俳優さんの表現力の凄さを思い知ったのであった。
CRASH THE BORDERS
既存のシステムにバグを起こしクラッシュさせろ。自らがノイズとなり、あらゆる境界線をかき乱せ。
All text written by super-KIKI.