issue
HOPE OVER HATE
HOPE OVER HATE 「憎しみを超えて、希望を作り出す」ーー格差は拡大し、生きることに不安を覚えた人が、自分やその周りの人を守るためにと、さらに弱い人や異質だと思う人を排除しようとしてしまう。世界ではまた新しく始まる紛争、終わらない虐殺。私たちの「より豊かな生活」のために、犠牲になり続ける人たち。 そんな世界に生きる私たちには、こんな言葉が絵空事のように、まるで魔術のようにリアリティのないものとして空虚に響くかもしれない。わたしの中にも憎悪が渦巻いていて、理想を語る自分自身を冷めた目で見ることもある。 けれど、こんな世界だからこそ、それこそ魔術ーまじないのように「希望を作り出せ!」と言いきかせたい。善も悪もないまぜの、複雑で多面的な私たちが共存するのは難しい。でも希望を求めるという事を共通事項として、少しでも話ができるようにならないだろうか?自分自身の体にまじないをかけ、今こそフィジカルなコミュニケーションが、有刺鉄線の一つを取り除くと信じて制作をした。
HOPE OVER HATE
HOPE OVER HATE 「憎しみを超えて、希望を作り出す」ーー格差は拡大し、生きることに不安を覚えた人が、自分やその周りの人を守るためにと、さらに弱い人や異質だと思う人を排除しようとしてしまう。世界ではまた新しく始まる紛争、終わらない虐殺。私たちの「より豊かな生活」のために、犠牲になり続ける人たち。 そんな世界に生きる私たちには、こんな言葉が絵空事のように、まるで魔術のようにリアリティのないものとして空虚に響くかもしれない。わたしの中にも憎悪が渦巻いていて、理想を語る自分自身を冷めた目で見ることもある。 けれど、こんな世界だからこそ、それこそ魔術ーまじないのように「希望を作り出せ!」と言いきかせたい。善も悪もないまぜの、複雑で多面的な私たちが共存するのは難しい。でも希望を求めるという事を共通事項として、少しでも話ができるようにならないだろうか?自分自身の体にまじないをかけ、今こそフィジカルなコミュニケーションが、有刺鉄線の一つを取り除くと信じて制作をした。
HEX RACISM
HEX RACISM レイシズムを呪い、共生を祝う。 レイシズムとは、人種の間には根本的な優劣があり、優秀な人種が劣等な人種を支配するのは当然である、というイデオロギーのこと。人種主義と訳される。人種的な優劣とは何か?それを測る物差しを、私たちはどこで手に入れ、どうやって「人を測る」ということができると勘違いしたのだろうか。 共に生きる社会を祝ってダンスするのは、善悪二元論での「悪」の象徴として描かれてきた悪魔と、異端者として迫害されてきた魔女、テーブルに乗って空を飛ぶ東洋の男性の魔女。HEXは呪い、もしくは魔術と訳される。それらは物理的な力を持たないとされてきたものたちが世界を変えるための実践ではなかったか。 まどかしとね著『サイボーグ魔女宣言』の中で、スターホークの言葉の引用がある。 フェミニスト運動は政治活動であると同時に、魔術・精神活動でもあります。これは魂の解放、内なる相剋の解消及び完全への標を標榜している点で精神活動であり、意識を変化させ、知覚を拡大し、新たな洞察力を与えてくれる点で魔術活動なのです。魔術について多少異なる定義をすればフェミニスト運動イコール魔術とすることもできます。異なる定義とはすなわち「調和する変化を意のままにもたらす技術」。(スターホーク『聖魔女術』395頁より)
HEX RACISM
HEX RACISM レイシズムを呪い、共生を祝う。 レイシズムとは、人種の間には根本的な優劣があり、優秀な人種が劣等な人種を支配するのは当然である、というイデオロギーのこと。人種主義と訳される。人種的な優劣とは何か?それを測る物差しを、私たちはどこで手に入れ、どうやって「人を測る」ということができると勘違いしたのだろうか。 共に生きる社会を祝ってダンスするのは、善悪二元論での「悪」の象徴として描かれてきた悪魔と、異端者として迫害されてきた魔女、テーブルに乗って空を飛ぶ東洋の男性の魔女。HEXは呪い、もしくは魔術と訳される。それらは物理的な力を持たないとされてきたものたちが世界を変えるための実践ではなかったか。 まどかしとね著『サイボーグ魔女宣言』の中で、スターホークの言葉の引用がある。 フェミニスト運動は政治活動であると同時に、魔術・精神活動でもあります。これは魂の解放、内なる相剋の解消及び完全への標を標榜している点で精神活動であり、意識を変化させ、知覚を拡大し、新たな洞察力を与えてくれる点で魔術活動なのです。魔術について多少異なる定義をすればフェミニスト運動イコール魔術とすることもできます。異なる定義とはすなわち「調和する変化を意のままにもたらす技術」。(スターホーク『聖魔女術』395頁より)
家父長制の墓
家父長制の墓 現在も世界中のありとあらゆるところに残る家父長制(Patriarchy)的価値観。国家が国民を「国力」としかみなさず、国力を増やし育てるために血縁に依る「家族」以外のものを排除し、その異性愛健常者中心主義のガチガチの家制度で「男性」を家長としながら外で生産労働させ、「女性」を家に閉じ込め再生産労働(ケア)をさせる。私たちの権利と自由を奪い続けるタチの悪い怨念のようなヤツ。もうずっとハエがたかるほど腐敗しているこのシステムを埋葬し、成仏してもらいましょう。サイドに描かれた芍薬は、日本の古典的な「美しい女性」を表すために用いられる花でもある。しかしその花言葉の一つには「怒り」があるのである。
家父長制の墓
家父長制の墓 現在も世界中のありとあらゆるところに残る家父長制(Patriarchy)的価値観。国家が国民を「国力」としかみなさず、国力を増やし育てるために血縁に依る「家族」以外のものを排除し、その異性愛健常者中心主義のガチガチの家制度で「男性」を家長としながら外で生産労働させ、「女性」を家に閉じ込め再生産労働(ケア)をさせる。私たちの権利と自由を奪い続けるタチの悪い怨念のようなヤツ。もうずっとハエがたかるほど腐敗しているこのシステムを埋葬し、成仏してもらいましょう。サイドに描かれた芍薬は、日本の古典的な「美しい女性」を表すために用いられる花でもある。しかしその花言葉の一つには「怒り」があるのである。
DESIGN ISSUES
家父長制の墓 現在も世界中のありとあらゆるところに残る家父長制(Patriarchy)的価値観。国家が国民を「国力」としかみなさず、国力を増やし育てるために血縁に依る「家族」以外のものを排除し、その異性愛健常者中心主義のガチガチの家制度で「男性」を家長としながら外で生産労働させ、「女性」を家に閉じ込め再生産労働(ケア)をさせる。私たちの権利と自由を奪い続けるタチの悪い怨念のようなヤツ。もうずっとハエがたかるほど腐敗しているこのシステムを埋葬し、成仏してもらいましょう。サイドに描かれた芍薬は、日本の古典的な「美しい女性」を表すために用いられる花でもある。しかしその花言葉の一つには「怒り」があるのである。 No one is free until we are all free. わたしが自由になるまでわたしたちは誰も自由ではない。パレスチナ解放運動で使われているスローガンだ。 アニッシュ・カプーア「マルクスやエンゲルスが言ったように、一人が鎖に繋がれていたら、みんなも鎖に繋がれていることになるのだ。個々の人間性が奪われ、踏みつけられ、人間としての可能性、そして人類の可能性が踏み潰されてしまうのだ。」 わたしは、わたしが自由になりたいからこそあなたの自由のために闘っている。パレスチナの帰還権を求める鍵のモチーフをオリーブの葉と共に描いた。 (こちらのパーカーは、就労継続支援B型 障害福祉サービス施設の「一葉(いちよう)相模原事業所」の方に、タイダイ染めをお願いしました。) MY BODY MY CHOICE (※性被害の経験が語られているのでご注意ください。) 私がこの言葉に出会ったのはフェミニズムというものに出会いはじめた頃だった。カナダのトロントで警察官が放った「レイプされないためにはスラット(尻軽)な格好をしないことだ」というセリフ。それに怒った女性たちが起こした抗議運動「スラットウォーク」の記事の写真に、あえて露出の多い服を着てこの言葉のプラカードを持った人々の姿があった。 「怒っていいんだ」と、思った。そんな当たり前のことに、気付けなかった自分がいた。幼い頃から自分も、周りの友達も、突然同意なく性的な行為を見せつけられたり、身体を触られたりすることが決して珍しいことではなかった。学生時代には毎日のように電車で痴漢に遭っている友達もいたくらいだ。私が初めて性被害に遭ったときは、それがどういう意味を持つのかすらわからなかったけれど、とにかく怖くて、立ちすくんで涙を流すことしかできなかった。30年以上前のことだが、今でも泣きながら見つめていた階段の隅を鮮明に思い出せるくらいに脳裏に焼きついてしまっている。それでも、私は同時に言い聞かせていた。「しょうがないことなんだ」と。スカートをはいていたから、一人でいたから、「女」だから、これぐらいみんなされているから…。幼い私にすらそう思わせていたものはなんだったのだろうか?今ならわかる。 勇気を持って自分の被害を告白する人々のおかげで少しずつ変わってきたものの、いまだに「気のせいなんじゃない?」「自意識過剰」「売名行為」「ハニトラだろ」「そんな格好してるから」「それくらい笑って流せるのが賢い生き方」などなど、被害者のせいにさせようとする呪いの言葉でこの世はあふれているからだ。被害者の多くにはショックの大きさを和らげようと「なんでもないことなんだ」と自分に言い聞かせる、いわゆる正常化バイアスがかかる。それすらも利用し、私たちから怒りや悲しみの感情と表現を奪う卑怯な行為だ、と今なら思える。 私の身体のことは、私が決める。どんな格好をしていようが誰も私の身体を好きにする権利はないし、誰を好きになるかも、ひとりでいるのかも、子供を持つも持たないも、安全に妊娠を、中絶を選ぶことも、「自然」であるかも「不自然」であるかも、どんな状態であるかは、誰の指図も受けず、自分で決めていい。そしてそのための正しい知識や医療にアクセスする権利がある。 「性と生殖に関する健康と権利(SRHR)」は、すべての人が持っています。しかし、隙あらば支配しようとしてくる奴らのせいでこの権利が侵害されまくっている。(我々にある果てしないパワーをビビってるんでしょうね) 米国でトランプが再選された後「Your Body, My Choice(お前の身体のことは俺が決める)」というとんでもね〜言葉が男性たちから出回ってるし、反LGBTQ +...
DESIGN ISSUES
家父長制の墓 現在も世界中のありとあらゆるところに残る家父長制(Patriarchy)的価値観。国家が国民を「国力」としかみなさず、国力を増やし育てるために血縁に依る「家族」以外のものを排除し、その異性愛健常者中心主義のガチガチの家制度で「男性」を家長としながら外で生産労働させ、「女性」を家に閉じ込め再生産労働(ケア)をさせる。私たちの権利と自由を奪い続けるタチの悪い怨念のようなヤツ。もうずっとハエがたかるほど腐敗しているこのシステムを埋葬し、成仏してもらいましょう。サイドに描かれた芍薬は、日本の古典的な「美しい女性」を表すために用いられる花でもある。しかしその花言葉の一つには「怒り」があるのである。 No one is free until we are all free. わたしが自由になるまでわたしたちは誰も自由ではない。パレスチナ解放運動で使われているスローガンだ。 アニッシュ・カプーア「マルクスやエンゲルスが言ったように、一人が鎖に繋がれていたら、みんなも鎖に繋がれていることになるのだ。個々の人間性が奪われ、踏みつけられ、人間としての可能性、そして人類の可能性が踏み潰されてしまうのだ。」 わたしは、わたしが自由になりたいからこそあなたの自由のために闘っている。パレスチナの帰還権を求める鍵のモチーフをオリーブの葉と共に描いた。 (こちらのパーカーは、就労継続支援B型 障害福祉サービス施設の「一葉(いちよう)相模原事業所」の方に、タイダイ染めをお願いしました。) MY BODY MY CHOICE (※性被害の経験が語られているのでご注意ください。) 私がこの言葉に出会ったのはフェミニズムというものに出会いはじめた頃だった。カナダのトロントで警察官が放った「レイプされないためにはスラット(尻軽)な格好をしないことだ」というセリフ。それに怒った女性たちが起こした抗議運動「スラットウォーク」の記事の写真に、あえて露出の多い服を着てこの言葉のプラカードを持った人々の姿があった。 「怒っていいんだ」と、思った。そんな当たり前のことに、気付けなかった自分がいた。幼い頃から自分も、周りの友達も、突然同意なく性的な行為を見せつけられたり、身体を触られたりすることが決して珍しいことではなかった。学生時代には毎日のように電車で痴漢に遭っている友達もいたくらいだ。私が初めて性被害に遭ったときは、それがどういう意味を持つのかすらわからなかったけれど、とにかく怖くて、立ちすくんで涙を流すことしかできなかった。30年以上前のことだが、今でも泣きながら見つめていた階段の隅を鮮明に思い出せるくらいに脳裏に焼きついてしまっている。それでも、私は同時に言い聞かせていた。「しょうがないことなんだ」と。スカートをはいていたから、一人でいたから、「女」だから、これぐらいみんなされているから…。幼い私にすらそう思わせていたものはなんだったのだろうか?今ならわかる。 勇気を持って自分の被害を告白する人々のおかげで少しずつ変わってきたものの、いまだに「気のせいなんじゃない?」「自意識過剰」「売名行為」「ハニトラだろ」「そんな格好してるから」「それくらい笑って流せるのが賢い生き方」などなど、被害者のせいにさせようとする呪いの言葉でこの世はあふれているからだ。被害者の多くにはショックの大きさを和らげようと「なんでもないことなんだ」と自分に言い聞かせる、いわゆる正常化バイアスがかかる。それすらも利用し、私たちから怒りや悲しみの感情と表現を奪う卑怯な行為だ、と今なら思える。 私の身体のことは、私が決める。どんな格好をしていようが誰も私の身体を好きにする権利はないし、誰を好きになるかも、ひとりでいるのかも、子供を持つも持たないも、安全に妊娠を、中絶を選ぶことも、「自然」であるかも「不自然」であるかも、どんな状態であるかは、誰の指図も受けず、自分で決めていい。そしてそのための正しい知識や医療にアクセスする権利がある。 「性と生殖に関する健康と権利(SRHR)」は、すべての人が持っています。しかし、隙あらば支配しようとしてくる奴らのせいでこの権利が侵害されまくっている。(我々にある果てしないパワーをビビってるんでしょうね) 米国でトランプが再選された後「Your Body, My Choice(お前の身体のことは俺が決める)」というとんでもね〜言葉が男性たちから出回ってるし、反LGBTQ +...
MY BODY, MY CHOICE
MY BODY MY CHOICE by super-KIKI (※性被害の経験が語られているのでご注意ください。) 私がこの言葉に出会ったのはフェミニズムというものに出会いはじめた頃だった。カナダのトロントで警察官が放った「レイプされないためにはスラット(尻軽)な格好をしないことだ」というセリフ。それに怒った女性たちが起こした抗議運動「スラットウォーク」の記事の写真に、あえて露出の多い服を着てこの言葉のプラカードを持った人々の姿があった。 「怒っていいんだ」と、思った。そんな当たり前のことに、気付けなかった自分がいた。幼い頃から自分も、周りの友達も、突然同意なく性的な行為を見せつけられたり、身体を触られたりすることが決して珍しいことではなかった。学生時代には毎日のように電車で痴漢に遭っている友達もいたくらいだ。私が初めて性被害に遭ったときは、それがどういう意味を持つのかすらわからなかったけれど、とにかく怖くて、立ちすくんで涙を流すことしかできなかった。30年以上前のことだが、今でも泣きながら見つめていた階段の隅を鮮明に思い出せるくらいに脳裏に焼きついてしまっている。それでも、私は同時に言い聞かせていた。「しょうがないことなんだ」と。スカートをはいていたから、一人でいたから、「女」だから、これぐらいみんなされているから…。幼い私にすらそう思わせていたものはなんだったのだろうか?今ならわかる。 勇気を持って自分の被害を告白する人々のおかげで少しずつ変わってきたものの、いまだに「気のせいなんじゃない?」「自意識過剰」「売名行為」「ハニトラだろ」「そんな格好してるから」「それくらい笑って流せるのが賢い生き方」などなど、被害者のせいにさせようとする呪いの言葉でこの世はあふれているからだ。被害者の多くにはショックの大きさを和らげようと「なんでもないことなんだ」と自分に言い聞かせる、いわゆる正常化バイアスがかかる。それすらも利用し、私たちから怒りや悲しみの感情と表現を奪う卑怯な行為だ、と今なら思える。 私の身体のことは、私が決める。どんな格好をしていようが誰も私の身体を好きにする権利はないし、誰を好きになるかも、ひとりでいるのかも、子供を持つも持たないも、安全に妊娠を、中絶を選ぶことも、「自然」であるかも「不自然」であるかも、どんな状態であるかは、誰の指図も受けず、自分で決めていい。そしてそのための正しい知識や医療にアクセスする権利がある。 「性と生殖に関する健康と権利(SRHR)」は、すべての人が持っています。しかし、隙あらば支配しようとしてくる奴らのせいでこの権利が侵害されまくっている。(我々にある果てしないパワーをビビってるんでしょうね) 米国でトランプが再選された後「Your Body, My Choice(お前の身体のことは俺が決める)」というとんでもね〜言葉が男性たちから出回ってるし、反LGBTQ + 政策、特にトランスやノンバイナリーの存在を否定する動きが強まっている。 ジェンダーギャップ指数118位(146国中)の、ここ日本でも、公共空間でセクシズムがあふれているし、緊急避妊薬へのアクセスも難しい。「女性」の身体を管理してやろうとする力を、そこら中から感じてしまう。そして「女性」「男性」の二元論がら外れた人たちを排除しようとする陰湿な言葉はSNSで今日も飛び交う。 けれどどれだけの権力者や多くの人が否定したとしても、実際に我々は存在するのだから消すことはできない。人間は元々多様であるという事実の複雑さを受け止められず、今あるシステムの単純さに押し込むことしか考えられなくなっているのだと思うが、それゆえに起こっているトラブルは複雑さを学ぶことでしか解消できないし、それでますます被害を被るのはまた女性や性的マイノリティなのは言うまでもない。難しくても、複雑なものを見ようと目を凝らさなければ、より良い社会の作り方などわからない。多様な選択を互いに尊重するこのフレーズは、大きなものの支配からの抵抗と、共存のための力強いメッセージだと思う。 MY BODY MY CHOICEby REINA TASHIRO(FRAGEN) いちばん遠い存在は?と聞かれたら、「自分の身体」と答えると思う。わたしにとって、目の前のセクシストよりも自分の身体のほうが嫌悪の対象だった。 毎月生理がくる。そのたびに驚きながら「まじで下半身、他者」と嘆く。なんだこれは。無から他者を生み出すプロジェクト「出産」は(経験したことないのだけど)、想像するだけで混乱して途方に暮れてしまう。 わたしたちの身体は、わたしたちのものになったことがない。それぞれのものなのに。わたしたちが決めていいのに。人間は他者をコントロールしたがるのに、こちらは自分の身体さえままならない。 眼差しは、暴力である。えろい身体にならなきゃ。「モテる女」になりたい。いわゆる社会の期待に応えるための苦しい時期が続いた記憶がある。貧乳を揶揄われたときは笑いながらみんなと一緒になって自分の身体を蔑んだ。ヘラヘラする武器しかなかった。...
MY BODY, MY CHOICE
MY BODY MY CHOICE by super-KIKI (※性被害の経験が語られているのでご注意ください。) 私がこの言葉に出会ったのはフェミニズムというものに出会いはじめた頃だった。カナダのトロントで警察官が放った「レイプされないためにはスラット(尻軽)な格好をしないことだ」というセリフ。それに怒った女性たちが起こした抗議運動「スラットウォーク」の記事の写真に、あえて露出の多い服を着てこの言葉のプラカードを持った人々の姿があった。 「怒っていいんだ」と、思った。そんな当たり前のことに、気付けなかった自分がいた。幼い頃から自分も、周りの友達も、突然同意なく性的な行為を見せつけられたり、身体を触られたりすることが決して珍しいことではなかった。学生時代には毎日のように電車で痴漢に遭っている友達もいたくらいだ。私が初めて性被害に遭ったときは、それがどういう意味を持つのかすらわからなかったけれど、とにかく怖くて、立ちすくんで涙を流すことしかできなかった。30年以上前のことだが、今でも泣きながら見つめていた階段の隅を鮮明に思い出せるくらいに脳裏に焼きついてしまっている。それでも、私は同時に言い聞かせていた。「しょうがないことなんだ」と。スカートをはいていたから、一人でいたから、「女」だから、これぐらいみんなされているから…。幼い私にすらそう思わせていたものはなんだったのだろうか?今ならわかる。 勇気を持って自分の被害を告白する人々のおかげで少しずつ変わってきたものの、いまだに「気のせいなんじゃない?」「自意識過剰」「売名行為」「ハニトラだろ」「そんな格好してるから」「それくらい笑って流せるのが賢い生き方」などなど、被害者のせいにさせようとする呪いの言葉でこの世はあふれているからだ。被害者の多くにはショックの大きさを和らげようと「なんでもないことなんだ」と自分に言い聞かせる、いわゆる正常化バイアスがかかる。それすらも利用し、私たちから怒りや悲しみの感情と表現を奪う卑怯な行為だ、と今なら思える。 私の身体のことは、私が決める。どんな格好をしていようが誰も私の身体を好きにする権利はないし、誰を好きになるかも、ひとりでいるのかも、子供を持つも持たないも、安全に妊娠を、中絶を選ぶことも、「自然」であるかも「不自然」であるかも、どんな状態であるかは、誰の指図も受けず、自分で決めていい。そしてそのための正しい知識や医療にアクセスする権利がある。 「性と生殖に関する健康と権利(SRHR)」は、すべての人が持っています。しかし、隙あらば支配しようとしてくる奴らのせいでこの権利が侵害されまくっている。(我々にある果てしないパワーをビビってるんでしょうね) 米国でトランプが再選された後「Your Body, My Choice(お前の身体のことは俺が決める)」というとんでもね〜言葉が男性たちから出回ってるし、反LGBTQ + 政策、特にトランスやノンバイナリーの存在を否定する動きが強まっている。 ジェンダーギャップ指数118位(146国中)の、ここ日本でも、公共空間でセクシズムがあふれているし、緊急避妊薬へのアクセスも難しい。「女性」の身体を管理してやろうとする力を、そこら中から感じてしまう。そして「女性」「男性」の二元論がら外れた人たちを排除しようとする陰湿な言葉はSNSで今日も飛び交う。 けれどどれだけの権力者や多くの人が否定したとしても、実際に我々は存在するのだから消すことはできない。人間は元々多様であるという事実の複雑さを受け止められず、今あるシステムの単純さに押し込むことしか考えられなくなっているのだと思うが、それゆえに起こっているトラブルは複雑さを学ぶことでしか解消できないし、それでますます被害を被るのはまた女性や性的マイノリティなのは言うまでもない。難しくても、複雑なものを見ようと目を凝らさなければ、より良い社会の作り方などわからない。多様な選択を互いに尊重するこのフレーズは、大きなものの支配からの抵抗と、共存のための力強いメッセージだと思う。 MY BODY MY CHOICEby REINA TASHIRO(FRAGEN) いちばん遠い存在は?と聞かれたら、「自分の身体」と答えると思う。わたしにとって、目の前のセクシストよりも自分の身体のほうが嫌悪の対象だった。 毎月生理がくる。そのたびに驚きながら「まじで下半身、他者」と嘆く。なんだこれは。無から他者を生み出すプロジェクト「出産」は(経験したことないのだけど)、想像するだけで混乱して途方に暮れてしまう。 わたしたちの身体は、わたしたちのものになったことがない。それぞれのものなのに。わたしたちが決めていいのに。人間は他者をコントロールしたがるのに、こちらは自分の身体さえままならない。 眼差しは、暴力である。えろい身体にならなきゃ。「モテる女」になりたい。いわゆる社会の期待に応えるための苦しい時期が続いた記憶がある。貧乳を揶揄われたときは笑いながらみんなと一緒になって自分の身体を蔑んだ。ヘラヘラする武器しかなかった。...